ほんものの自由−阿部利勝の舞踏を讃えて−

 舞踏には人間的自由ということを主題にすえている身体実践である。人間は心の中に、絶対的な自由が実現されている領域を抱えている、唯一の生き物である。
 しかしその自由は、大脳を活動の舞台にしてしか、自分を実現できないようになっている。人間存在をつくりあげているほかの部分やほかの要素は、本質的に過去に属しているDNAに決定づけられ、また筋肉組織は労働によって限界づけられ、骨格は三次元空間の中でのみ移動回転ができるだけなので、人間的自由はどんな人においても、ただ可能的であるにとどまらざるをえないようにつくられている。
 舞踏はこのような人間の限界を突破しようとしてきた。心の中に浮かんだ自由なイメージを、そのまま筋肉組織や骨格の運動をとおして、この三次元空間の中で表現してみたい。肉体が空間にしばられてあるこの現実をこえて、絶対的自由という可能性を、肉体をとおして、現実世界の中に実現しようとしてきた実践なのである。
 阿部利勝の舞踏が感動的なのは、このような舞踏のかかえてきたほんらいの挑戦の意味が、すなおに、裸形のままで、私たちの前に立ちあらわれてくるのを、見届けることができるからである。恵まれた生活条件をもつほかの舞踏家たちとはちがって、阿部利勝の踊る肉体は、二重三重に不自由のひもで縛りあげられている。踊っていないときには、いつも自分が育てている農作物やカモのことを考えていなければならないし、田舎の共同体生活は芸術家に必要な孤独な時間を、彼に残してくれない。伝統芸能でも踊っていればまだましだったのであろうが、彼の住んでいるあたりには、まともな芸能など残っていやしない。しかし、それでも、彼の心には青空が広がっているのである。その青空の奥に、絶対的自由の領域が広がっているのを、阿部利勝ははっきりと感知しながら、トラクターや耕耘機を動かしている。そういう人間が、ここで踊っている。物質的重圧に十重二十重に取り囲まれながら、高次元に開かれた自由がその肉体からほとばしり出ようとしている。それを感じ取るから、私たちは阿部利勝の舞踏を見て、ひどく感動するのだと思う。
 彼の舞踏の秘密は、ユーモアにある。ユーモアにたくみな人々、たとえば東欧の人々やユダヤ人などは、現実では少しも自由ではない人たちだった。社会的特権も奪われているし、そんなに人から尊敬される立場にはいない人たちだからこそ、自分にあたえられた現実と、自分が心の中に感知している絶対的自由との隔たりを理解して、そこからユーモアの感覚が生まれたのだ。ああ、想像してもいただきたい。どこの世界に、泥にまみれた耕耘機をこれほどまでにいとおしいと思い、ぶこつなトラクターを律儀な動物のように思いやる、やさしい気持ちをもった舞踏家がいただろうか。農機具を主人公とした阿部利勝の舞踏シリーズほど、ゆたかなユーモアにみちあふれた作品を、私はついぞみかけたことがない。
 阿部利勝の舞踏に触れて、私たちは人間的自由について、思いをめぐらすべきである。ベルリンの壁が崩壊していらい、東方諸国のユーモアの表現は未曾有を危機にあるという。外からあたえられた偽りの自由が、彼らのなかからほんものの自由の感覚を奪ってしまったからである。ところが、そのほんもののユーモアが、ここにはたしかに生きている。日本の農業はサステナブル(持続可能)な危機にある。だからこそ、私たちは阿部利勝の舞踏のような、ほんもののユーモアを持つことができたのだと、言えるかも知れない。  

中沢新一(中央大学教授、宗教学者)