稲作ダンスリサイタル 「穂先、踊る」

「農機具詩集」へ戻る
●舞踏を観る。
 10月に麿赤兒さん率いる大駱駝艦の「流婆−RYUB−」、11月は大野一雄さんの「天動地動」、森繁哉さんの「どんぐりと山猫」と日本を代表する舞踏家の作品を見てきました。(森さんとはずっと公演を一緒にやっていて外から観るのは久しぶりでした)
 いずれもクラッシックバレエやモダンダンスのように華麗ではなく、意味を求めようとすると非常にむずかしく感じてしまいます。
 私自身、はじめて舞踏というものを見たときに『何を意味してるんだろう』という思いが強く「なんだんけ、あの踊り。えっ、まだやみねなが」と、どこかあざけりの含んだ笑い声を出すほうの立場にいました。
 いままで接したきたことが、テレビやマンガ、演劇でも意味ありげな言葉がはじめにありました。スポーツであれば、勝つための美、学校では「さてこの意味は」と追いかけられ、授業の美術や音楽であれば美を求められ、美しく描き演奏することを強いられる、そんな感覚がしみついていました。
 庄内弁で「これってなんの意味があんなや」という場合たいがい否定の意味が含まれます。
 そんなもんですから、舞踏ってわかんない、とずっと思ってました。いまでも良く分かるのかといわれれば、うまく答えられません。ただ、踊りの意味を考えずに見るようになって、楽しく(ちょっと舌足らずですが)見れるようになりました。
 東京で観た麿さん、大野さん踊りは、パンフレットの文を見るとちょっと難しく、まあ、文を読みに来たわけではないので、あまりこだわらずに見ることにしてました。
 言葉が無いぶん、勝手に自分の思いを持って見る、ときに舞台とぜんぜん関係のない物思いにふけっても舞台の流れが自分のなかで続くのは、大変気が楽でもあります。時に居眠りをしてもね。
 どこか一つ、自分のなかで『あああ』と思えるものがあれば、それでいいのです。それが、私の見方であります。
 せっかく高い電車賃出したのだから芝居も一つ見てこようってことで、「麿さんの作品、最後におおっときてよかったなー」と友人と話しながら、夕飯も食わずに、続けざま佐野史郎さんの一人芝居「マラカス」(作・演出、唐十郎)を見に行きました。
 はてはて、老人力がついてしまったのか、舞踏の余韻が抜けず、はじめ、台詞が頭に入ってこなくて困りました。頭の切替えができずストーリーが追えないんです。佐野史郎さんの質感だけを妙に感じてしまった観劇となったしだいです。
 新宿で夜行列車を待つあいだビールを飲みながら「年を取ったのか、欲張り過ぎたのか」うーん。どっちでしょ。

●舞踏について。
 舞踏って何ですか、て聞かれる。
 いまは亡き土方巽(1928年秋田市生まれ) がモダンダンスから舞踏を創設したといわれる。
 森さんの言葉を借りれば「生きること」。身体表現ならではの言葉です。生きることが踊ること・・。
 大野さんの言葉に(ちょっとテキストが手元になく曖昧なんですか)「どうしたら上手く踊れるですって。あなた自身の生活を大切にしなさい」この感覚は森さんの言葉とニュアンスが似ていて、私のなかにツンと入ってきました。
 「舞踏とは命がけで突っ立っている死体だ」は、よく引用される土方巽の有名な言葉です。同じく象徴的な言葉でこうも言ってます。
「一個の人間の中で、人間は生まれた瞬間からはぐれている。はぐれている自分と出くわすことが舞踏だ。だから、私は西洋の踊りのように、順番に肉体を訓練することを拒否する。『飼い慣らされた動作ばかりで生きてきて、お前は随分、酷い目にあって来たじゃないか。その原因はお前の肉体概念がいつもはぐれているからだ』と、自分の肉体を凝視させる」

●踊ること(種になること)。
 私はどうして踊るんでしょう。それは森繁哉さんとの出会い、といってしまえばそれまでですが、土方の言葉を借りれば「はぐれている自分」を感ずるからです。
 今回、自分の生活そのものでもある稲をテーマに踊ります。単純に種から芽を出して、苗になり青田、出穂そして実りと続く「稲」を踊りにするわけです。
 庄内(余目)で生まれ育ち、田んぼはずっと側にいました。また農家の長男として家を継ぎ、稲作を中心とした農業を続けてきました。たまにパンや蕎麦に浮気しつつも、ずっとご飯を食べてきました。
 稲は管理され、米は政治的になりすぎました。はぐれてしまっているんです。自然に還れない稲、そして私。はぐれた自分と出会ってみたいのです。
 1999年1月9日舞台に立つことを決めたんです。
 こんどは私自身が種になるのです。毎年種をまいてきました。稲であったり大豆であったり、そして、私自身に宿る種であったり。
 いったんまかれたものは命を全うしようとします。途中で枯死しようと、とにかく生きようとします。
 さまざまな天候のなか、さまざまな生育過程をたどります。
 今回、構成、演出を森繁哉さんにお願いしました。舞台監督の池田はじめさん、制作に芸術工科大のバロック舞踊団、そのほかたくさんのスタッフがいます。そのような天候(環境)のなかで私という「種」がどう生育するのか自分で見てみたかったのです。
 「稲作」というねじれた精神が私の肉体を突き破って生育するでしょうか。
 さあさあ、みなさん。よってらっしゃいみてらっしゃい。踊る産直のはじまりです。