稲作ダンスリサイタル 「穂先、踊る」

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「今日の東北のトーテミズム」
中沢新一


 オーストラリア・アボリジニーの伝統的な文化には、トーテミズムの思想というのがあった。その大地に生まれた人は誰もが、カンガルーとかエミュウ鳥とかワラビーとかの動物や植物の「トーテム」集団に属することになっていて、同じ「トーテム」集団の人は、自分の先祖でもあるそれらの動植物が、健やかに成長し増殖していくことに責任を持つのである。そして、動物や植物の成長増殖を願うために、いろいろな儀礼を行うのだけれど、一番重要な部分で、彼らはそれら「トーテム」の動物や植物そのものに変身しなりきって、とても面白い舞踏を行うのである。人間も含めて、あらゆる生き物あらゆる鉱物は、一瞬も途切れることなくこの宇宙を連続して流れている、力に満ちた流動から生まれてくる。ほんらいはかたちを持たない流れるものの中から、私たちの存在がつぎつぎと、まるで粒子のようにして、こぼれだしてくるのである。そういう風に考えるアボリジニーは、舞踏をつうじて、人はそれぞれ自分が責任を持っている他の存在になりきってしまうことによって、存在のおおもとのこの流動するものに触れようとしている。人類の生んだもっとも優しさに充ちた存在の思想が、そこには実現されていたのである。

 こういう思想に出会える機会は、今日の世界ではめっきり少なくなってしまった。人々は、自分が自分の持ち分で、責任を持って養い育てなければならない他者というものがいるという感覚を失ってしまった。他者と自分は深いところでひとつのものなのだから、他者の幸福や生存に、私たちの誰もが責任を持っているという感覚が、ひとたび失われてしまえば、いくら観念的なエコロジーを叫ぼうとも、事態の根源に触れることもできないままに、世界はいよいよバランスを失っていってしまうだろう。

 ところが、ここに稲という植物の生命になんだか知らないけれども、妙に深い責任感をいだいて、そのことをアボリジニーみたいに舞踏に表現しようとしている、不思議な男がひとりいるのである。阿部利勝。彼の伝来のテリトリーは今でいう山形県の余目。そこの大地を耕して、彼は稲を育ててきた。稲が彼の「トーテム」なのである。自分の身体の深部を流れる流動体は、かつて稲と一体であった。その稲を育て、収穫する。そして困ったことに、市場経済の世界に生まれてしまった彼は、自分の「トーテム」でもある稲の精髄であるお米を、稲のことを愛してもいない人々の手に、商品として売り渡していかなければならないのである。

 この宇宙にたまたま同居する機会を得た動物や植物のような他者を、まさに同じ生命の流れからこぼれ落ちたものとして、その生存に責任を持とうとする行き方こそが、お百姓の誇り高きエチカなのである。そしてそうやって育てたものを、お米をたんなるモノとしてしかとらえない市場と市民の世界に売り渡していかなければならないところに、お百姓の憂鬱もある。それらの矛盾すべてをひっくるめて、阿部利勝は今日に生き残るトーテミズムの思想を、身体で表現しようとしている。今日の日本に残されたわずかな希望の破片として、私はその舞踏を、とてもいとおしく思うのだ。

中央大学総合政策学部教授(宗教学)