お蓮

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清河八郎に魅かれるもの

清河八郎に魅かれるもの…時代の流れが180年周期で変わるという説を耳にしたことがある。TPP問題、「アラブの春」を持ち出すことも無く、世の中はますますグローバル化していく。合理化していけばいくほど、人の働く場所がなくなる逆説も生まれる。まずはよしとしている資本主義経済の行く末は、と思うと、幕末を駆け抜けた清河八郎の虹彩が妙にまぶしく現代に蘇ってくるように感じられるのだ。

また、地元出身の脚本家の柘植先生は、まるで清河八郎に温かな火を灯すかのように、「お蓮の数奇な運命に同姓として寄り添うように書いた」と、語ってくれた。

劇団響/代表 阿部利勝

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あらすじ

安政2年(1855年)、清河は江戸に文武両道の清河塾を開いていたが、大火で丸焼けになり、庄内に帰郷していた。9月のある日、親友の志士、安積五郎を誘って鶴岡屋で女たちを上げて豪遊。そこで清河は、高代の心の美しさにひとめぼれ。それからというもの足しげく鶴岡屋に通い、ついには身請けを決意し求婚する。斎藤家は猛反対であったが、伯父夫婦のもとで、二人はささやかながら三々九度の盃を交わした。

それは、名家の長男の地位を捨てる決断であった。そして、高代を泥の中に咲く蓮の花にたとえ、「お蓮」という名前に変えたのである。

安政六(1859)年大晦日、江戸。自宅で文武両道の塾を開き、貧しいながらもお蓮と平穏な日々を送っていた。翌年桜田門外で幕府の大老・井伊直弼が討たれ、清河は衝撃を受ける。それが転機となりしだいに塾は憂国の志士の会合所となった。お蓮は、「幕府を倒す」などと酔うにつれ、ますます気勢を上げる清河の同士に、家計の苦しさなど一斉口にせず、微笑みをもって、世話する日々が続いた。

文久元(1861)年、清河は書画会に出席。お蓮はその日胸騒ぎがして行くのを止めたのだったが……。

●高代(お蓮)は、天保11(1840)年旧朝日村熊出岩の沢(現鶴岡市熊出)で生まれる。
父は医者であった。幼名は「はつ」で10歳のころに大山に里子にやられ、よく養父母に仕えて子守や畑仕事に精を出していたが、養家の暮らしも貧しく、17歳で鶴岡の八間町の「うなぎ屋」の遊女となった。以後「高代」と呼ばれて、お客に接することになる。(今回の芝居では、「鶴岡屋」の舞台設定となっています)

●清河八郎は、天保元(1830)年清川村(現庄内町清川)生まれ。幼名は斎藤元司。斎藤家の長男で、生家は酒造業を営む、地方の大富豪で名家であった。

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