1996年1月20日
阿部利勝・洋子

拝啓 イブの夜から大荒れとなり、みぞれ、あられ、吹雪とみごとというべき変化をとげながら、白い世界となりました。
 そしてお正月。みなさまいかが過ごされましたでしょうか。
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山間地農業に学ぶ
●山と海
 余目町というところには山がありません。ちなみに、山形県内の市町村で山を持たないのは隣の三川町と二町だけであります。
 小学校の遠足でどっかの里山に登ってドングリ、落ち葉を拾い、山葡萄をとったことが、とても新鮮でした。
 それ以上に幼かった私の気を引いたのは海でした。はじめて見た(と記憶している)ときは、ほんとに「海は広いな大きいな」の歌そのまんまの感慨に浸りました。海へ向かう途中、ちらりとでも視界に入れば「 海だ海だ」はしゃいだものです。
 若いうちはどうしても海指向。車で20分位ということもあり、青年団なんかで夜の集まりなんかがあれば、10時で公民館を追い出されたのち、誰彼となく「海を見にいこう」という声が出て、車に乗り合わせ 海に向かう、というのが定番でした。もちろん女の子も一緒で、途中の道路沿いにあるモーテルのネオンにどぎまぎしたものです。
 当時は農家の長男が青年団にはごろごろいて、結構みんないい車に乗っておりました。米価要求の季節になるとよく「農家を継がせようと、ボンクラな伜のために高級車を買い与えている親バカを見れば、米価の 値上は税金の無駄使いであるというのがお分かりであろう」といった評論家の声が聞けたものです。(で、自動車産業は栄え、農業は衰退しましたが・・)。
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○森 繁哉さんとの出会い
 話が横道にそれました・・。
 なぜこんなことを書き出したかといえば、昨年、私は大蔵村の柳淵という山あいの棚田で米作りをしたからです。
 きっかけというのは、同村に住む鬼才・森繁哉氏との出会いからであります。3年前余目で、創作ダンス『稲作シリーズ・亀の尾』を舞ってもらってから、なにかとお世話になっております。
 森さんは別名『踊る公務員』と呼ばれ、現代舞踏家として活躍しつつ、役場に勤務しています。
 森さんの踊りの拠点として、大蔵村の柳淵に、離村した農家の廃屋を改築した『すすき野シアター』があります。そこの近くの田んぼ(8)を森さんが借りた(任されたというのが正確かもしれませんが)のがそもそものアレで、「いやぁ、オレ田んぼのごどちょっとわがんねんだ。ちょっと教えでくれや」というわけで、3年前、森さんが非常勤講師をつとめている芸術工科大学の民俗芸能舞踏団『郷』の学生と夢会議(余目の町おこしグループ)のメンバー何人かで田植えを行いました。
 他村の田んぼに入るということで田植え前に御神酒をいただきましての手植え作業は、森のなかの棚田ということも手伝って、わくわくするものがありました。
 この年は大冷害にみまわれた年でもあります。森さんは、収穫皆無の状況のなかから、いくばくか頭を垂れている稲穂を刈り取って籾にしてわが家に持ってきました。それを調整したところ、数ばかりの白米に なりました。100年に一回の大冷害ということですから私にとってもはじめての体験です。
 冷害でいびつな形状な米を、森さんは生まれたばかりの赤子のようにいとおしそうに抱きかかえ、持ちかえりました。
 二年目、人数は少なくなりましたが、手植え作業に駆けつけました。この年はぐわっと暑い夏がやってきたのですが、雑草の勢いに稲のほうがたじたじで、つまり、簡単にいってしまえば人災による不作でありま した。そのぶん、稲刈り援農隊としてはラクチンだったのはいうまでもありませんが・・。そのとき森さんが「いやぁ、あべちゃん。山間地農業というのもなかなかいいべ。来年まがせっからよ、やってみねが。オ レもいっそがっしぐでよ」と囁くのでありました。私は「アハハ。んだの。いやぁ、まぁ。ちょっと、あれだけんどもの。アハハ」と意味不明の答えして、即答は避けたのであります。
 だいいち一時間もかけて水管理ができるとは考えられなかったし、我が家のトラクターでは急勾配な進入路のある田んぼに入れそうに有りません。また、大型機械を積むトラックもなかったからであります。
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●景観と農薬
 余目の集落は田んぼのなかにぽつんぽつんとあります。5月、いっせいに水を引き代かきがはじまると、集落が海に浮かぶ島々のような感じになります。そして田植えとなるわけなんですが、田植えあと一週間も 過ぎますと除草剤散布がはじまります。
 そのころ田んぼ道をバイクで走ってますと、除草剤の揮発臭があちらこちらで漂い、宿酔い等で気分が悪いときなどは閉口します。(私も半分以上の田んぼで除草剤は散布しています。あえて自分のことは棚にあ げて)。
 風景だけでしたら、春先の乾期のような白っぽい土色、田起こしあとの黒茶っぽい土の香ばしい匂い、それも束の間あっというまに水に沈む田んぼ。そして、鏡のように青空一杯を映しこんだ田んぼのなかで揺ら ぐ早苗と、人為的にせよほんとうに鮮やかに変転する様は美しいと思います。
 しかしながら、田植えがすんでから盆すぎ頃までどこかかしこから農薬の匂いが漂ってくる、というのが稲作地帯の実態でもあります。
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○棚田を引き受ける
 「平地の工場のような田んぼに飽きてきた?」いえいえ、農法としてもまだまだ未完成で飽きたなどとはいえません。ただ小学校の遠足の「山っていいよな」というの憧れとおそれの気持ちがどこかにあり、森さ んの誘いにのってしまいまいました。
 水管理は地主である三原さんよりやっていただくことに話が決まると、こっちの田んぼもあいているからということで、計20・の田んぼを引き受けることになりました。
 小雨の降りしきる5月21日に「えー、ほんとにやるの」とぐずる友人(今野、成田)を拝み倒し、トラックにトラクターと草刈り機と肥料を積んで、いざ出発です。三人とも合羽を着込み、今野君が肥料をふり 、そのあとから成田君がとトラクターで追っかけます。私は田んぼの周りの傾斜地の草刈りです。肥料散布は間もなく終え、畦にもワラビが生えている、と今野くんは山菜取りに夢中でした。
 山間地の5月は、雨が降ればまだまだ寒いのです。そんなときのトラクターでの作業は体が芯まで冷え、成田君はふるえてました。私のほうは、慣れない傾斜地での草刈りに汗だくです。
 昼はとっくに過ぎていましたが、濡れた合羽を再度着込むのがいやで作業を続けました。昼すぎようやく終了し、森さんの待つ『すすき野シアター』で持参した弁当をふるえながらもビールで流し込みました。( もちろん運転する人は飲みません。余目で再度乾杯したのは申し添えるまでもありませんが。)
田植えは一週間後に行いました。この日は快晴で作業もスムーズにいき、「ちょっといいじゃん、山間地農業」てな感じで私は帰ってきたつもりでありましたが、今野&成田は『えー、なんでハゲおやじにつきあわなくちゃならないのかよ〜』という思いをひきづっていたようで・・。「いやぁ、ごくろうさん。秋まではなんとか一人でやっからや。アハハハ」
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●草を刈る日々
 田んぼを草だらけにすると「田を荒らす」と農民のなかでは蔑視される風潮があります。また、畦畔の草を刈らないでいるのもしかりです。地域によっては期限まで刈り取らない場合ペナルティを課すところすら あります。まして同じ県内とはいえよそものゆえ、「庄内から来てる百姓、遊びで来て田荒らしてる」と地元の人に迷惑をかけるわけにはいかないのです。だから、田んぼ周辺の草刈りには気を使いました。他の田 んぼと離れてはおりますが、いずれも短く刈り取られていたからです。( そう、私は村人の眼ばかり気にする小心者の百姓です) 。
山間地の場合、どうしてこんなに草が短いのに刈り取るのだろう、という素朴な疑問がありましたが、すぐに納得しました。なぜなら草丈が長くなると機械に絡みつくような草も混じり、ただでさえ足場の悪い傾 斜地ではひどく体力を消耗するからでした。それだったら回数を増やしても、短いうち刈り取ったほうが機械に負荷もかからないし人間も楽なのです。
 草刈りに行くのに一時間もトラックに乗っていると、それだけで結構な体力を消耗しました。また、10・当たりにかかる労力といったら、平地の3倍以上でしょう。それと、気圧の違いなのでしょうか、傾斜地 ゆえ常に斜めの姿勢で作業するからなのでしょうか、なぜか大蔵村にいくと草刈り機械の具合が良くないのです。
 正直なところ、自分の田んぼのことやその他雑事に追われていて、とても山々の清らかな空気や清水を楽しむ余裕などなく、むしろ苦役の労働のようでもありました。『あー、どうしてこんなところまできて苦し い思いをしなくてはいけないんだ』
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○ダンス&交流会
 いよいよ稲刈りです。森さんがダンスの多様な可能性に挑む、恒例のすすき野シアター「秋の宴」を10月のなかばに行うということで、ずっと手伝ってくれた今野君や成田君のほかに夢会議のメンバーも声をか け、泊まりがけでの稲刈りとなりした。このときは、中央大学の中沢先生とゼミの学生のみなさんから稲刈りを手伝っていただきした。
 ほんとうにさわやかな秋晴れのなか、わいわいがやがやと若い声がこだまし、孤独だった草刈り作業の日々の記憶など吹き飛んでしまうような楽しい稲刈りとなりました。夜は夜で森さんの素敵なダンス観賞、そ れに交流会では芸工大の民族芸能に飛び入りでの「様々な舞」などもまじえ、例のごとく(?)ハイな状態で夜更けまですごす、私でありました。
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●寒々と3俵にも満たない収穫
 大蔵村の属する最上郡は作況指数88(100 が平年作の収量) と「著しい不良」でありました。柳淵は標高も高いうえに、冷たい沢水(飲めるんですよ、この水が!)、それに品種設定の誤り(『ひとめぼれ』より冷害に強い品種を本年は検討中)や遠距離通勤のための管理不行き届きも加わり、10・当たりの収量は3俵を少し切るといった大凶作となってしまいました。
 影響は収量だけではありません。品質のほうは3等にすら入らず規格外でした。実りのときの低温は食味も影響をおよぼします。これが鳴り物入りでデビューした『ひとめぼれ』?、と思うようなボロボロしたあ まり美味しくないご飯に炊きあがったのには少なからずショックを受けました。
「いわゆる病害虫防除はしておらず、農薬散布は除草剤一回のみの使用、それに澄んだ空気に森の精霊が宿る透明な水で作られた、大蔵村発、特別栽培米。一度食べたらきっとあなたも『ひとめぼれ』」 となるのだ、とかってに決めつけていたからです。
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○本年もよろしく。山へ向かいます。
 私は今、無農薬(低農薬)米の産直を個人でやっています。値段のほうは市価よりも高くなっています。そのなかで「美味しくない」という評価は(玄米食の方は別ですが)死刑にも値します。即、キャンセルで しょう。(山の獣はうめぇうめぇと食べてくれるかもしれませんが) 我が家の鴨農法の田んぼも雑草対策に代かき(田んぼの土を練ってようかん状にする作業)を2回するためわざと田植えを遅らせました。出 穂も当然ずれ、そこに秋の不順な天気がみごとにぶつかってしまい、昨年より米の甘味が薄いかなと感じています。収量のほうは6俵少々と、近所の普通栽培の昨年比の減収率からみればまあまあ(?)かなと考え ています。
 山間地は自然が豊かだと街の人々より熱い視線をあびてるとはいえ、換金作物としての山間地稲作はきびしいものがあると実感いたしました。数年に一回の冷害ではリスクが大きすぎます。物質はあっというまに 山に駆け登りますが、農民が米俵をかついで下るのには時間がかかります。ようやく街にたどりついたのも束の間、輝くばかりの大量の商品に圧倒され、自信を無くし村に逃げ帰りたくなる、そんな思いが私にはあ ります。
 私が作っている田んぼは森さんが引き受けなければ耕作放棄田になっていたかもしれません。そして、山の雪が里におりてくるように、「離農者」が里におりて来つつあります。
 学ぶなどと不遜かもしれませんが、私を強く引きつけてやまないものがあるのです。もちろん逃避的な部分を認めざるおえません。路傍の花や雑草が美しいと感じられない、余裕のない精神状態での山間地農業は たんなる重労働でしかないことくらいは知っているつもりです。
 がしかし、今年も山に向かうつもりです。『うーっ、さぶさぶ』あっ、大切なことを言い忘れました。  無農薬米と減農薬の『はえぬき』まだ余裕があります。私はけっして怖い者ではございません。昨年お買い忘れのお客さまお気軽にお電話ください。ねずみ番をしながらお待ちしております。
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 森繁哉さんと中沢先生の対談が、「哲学の東北」(中沢新一著.青土社)に載っております。ちなみに酒田の八文字屋書店では郷土出版のコーナーに置いてありました。
 ではではみなさん、かぜを引いたら『としかつ父ちゃんのしょうもない米』てが? お元気で。
 

敬具

としかつ父ちゃんのしょうもない通信
1994.9.26号 1995.7.14号 1995.9.17号 1996.1.20号 1996.9.14号 1997.7.20号 1997.9.26号 1998.6.17号
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1996.8.25号 1997.11.19号

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