「グループ稲だ」より寄稿
お元気ですか。
稲は本年も元気です。
●4年連続の豊作に、思う。

 平成5年が大凶作でありました。
 それから、あれよあれよの米余りとなっている昨今、まあ、なんといいましょう「ないよりは絶対いい」と、とりあえずいってしまいましょう。 凶作のときは、国産のご飯が食べたいという、悲鳴にも似た声がありました。そんな声も次の年の豊作で聞くこともなく過ぎてほっとしておりました。
 私は人がいいんで(自分からいうか?)、人から羨ましがられて飯を食うのはどうも気が引けていけません。ときに半作にも満たない無農薬米を食べていて、変わり者と思われてもけっして羨ましがられることがないのは、あきらかに米にたいして多くの皆さんが食い意地をはってない(物がふんだんにある)証拠でしょう。
 しかしです。自由化もすすんで順調に(?)米価も下落していきつつあるなか、農業後継者といわれる人々は反比例するかのように高齢化がすすんでいます。 かといって、ここで、後継者難そして将来米不足になるといった論を持ち出すことはいたしません。なぜかといえば、例えば国連食糧農業機関(FAO)とワールドウォッチ研究所(レスター ・ブラウン氏所長) との論争等ありますが、私の情報収集力では力不足で、感情的に『世界的食糧不足論』を引用してしまうことを避けたいからです。
 数年前から比較して米価は5千円以上も下がっています。自分で付加価値を付けて高く売れるでしょ、とおっしゃらられても多くの農民は「米自由化絶対反対。米価上げろ」の時代のマインドコントールがなかなかとけないのです。現実的に5ヘクタールの規模で250万円ほど違っています。収量のほうも、産地間競争のなか、量より質とばかり、食味優先のなか収量は伸びていません。
 このようななかで従来通り農協出荷だけの生産者だと、大方が目標を失いやる気をなくしている、というのが今の現状ではないでしょうか。(では、産直農家がいいかとすれば少なくとも、消費者の声が直接届くというぶんにおいては恵まれていますが、所得においてはちょぼちょぼといったところです。)醒めた見方かもしれませんが、それでも日本の米は需要があるので誰かは作っていくでしょう。
 さて、その生産量ですが、ちょうど地上という農業雑誌の11月号で経団連の農政部会長の山崎誠三氏が、800万トン生産すれば十分だという発言をしております(記事の誤植がなければ)。この800万トンという数字は国民の一人当たりの年間消費量を大雑把に70・弱として、×1億2千万人にすればこのような数字になります。
 恒常的な輸入米を加算しての自給ぎりぎりという数字です。
 なぜこのような記事を引用したかといいますと、この主張がどうのこうのという以前に、米生産の現場にずっと携わってきて、いまのままではもう自給は無理なんではないかという、思いがあるからです。これは理屈なんかではなく、ただただ、実感であります。2〜3割減と推定しますと、この800万トンという数字が妙に現実味を帯びた数字に思えてきませんか?
 米不足のとき、新聞の投書欄で「国産米を食べたがっているのだが、予算が決まっていて、米が高くて買えない。公的な施設にしわ寄せがきている」とある施設に勤めている職員の声が載っていました。 私とていつ世話になるかわかりせん。それに私は、ご飯がないと思うと生きる糧を失ってしまうようなみみっちい人間です。
 もう米は消費者の問題にしなければならないのに、ひじょうに無関心のようでこころもとないのです。私たち農家だってどんどん食べる人側に変わっていっているのですから、「黙っていていいんですか。欲しいものを欲しいといって下さい」と言いたいのです。 米余りの今だからこそ。
 

としかつ父ちゃんのしょうもない通信
1994.9.26号 1995.7.14号 1995.9.17号 1996.1.20号 1996.9.14号 1997.7.20号 1997.9.26号
グループ稲便り
1996.8.25号 1997.11.19号

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