1997年7月20日号

阿部利勝・洋子

 

 ごぶさた致しております。みなさんお元気でしょうか。
田植えがすんで2ヶ月も過ぎ、稲はりっぱな青田となり緑で田んぼを埋め尽くしております。でもって我が家の田んぼはと申せば、5月の11日〜15日に田植え、除草剤のみ使用の減農薬無化学肥料栽培田は、まあ、そこそこ順調です。が、あい鴨農法の田んぼがいまいち``。28日に鴨の雛を放った田んぼ(無農薬無化学肥料栽培)は、空からのカラスの攻撃がひどく、ロケット花火などで追っ払いつつも数羽は犠牲になりました。一週間から十日ほどで程で鴨も体重それに俊敏性が増し、カラスさんも諦めたようでほっとしていたのですが、5月下旬から6月上旬のぐづついた天気も災いし、稲の成長以上に鴨の成長がいちじるしく、日増しに稲までが(雑草はもちろん)食べられたり、なぎ倒され、青田ならぬ沼が拡大してしていき、鴨の数を減らしたものの時すでに遅しでありまして、本年も早々と減収必至であります。
昨年度は弱々しい苗のため鴨を入れる時期を遅らせたら見事にヒエ(水田の代表的な雑草)が繁茂して、鴨までがヒエを嫌って秋には見事ヒエと稲の混植状態で減収してしまいました(とほほ)。
 今年は昨年の反省を生かして、と意気込み過ぎて稲までなくしてしまうという、未熟者でございます。まあ、生き物相手の仕事ゆえ(冬には食っちまうというやましさも)、振り回されて当然のような気がする今日この頃です。

 

剛裕君からの手紙

 以前この通信で『山間地農業に学ぶ』と題してご報告申し上げましたように、私は庄内平野の余目からは車で一時間くらいの最上郡大蔵村の棚田(20・程)を柳淵の村の住人と共同耕作いたしております。
また昨年より、そのなかの3・ばかりの田んぼを中央大学の中沢新一氏率いる中沢ゼミの学生におすそ分けのようなかたちで、貸し出し、田植えと夏の草取り(夏はこちらに来るにも金がかかるので気が向けば)と稲刈りを行ってもらい、乾燥調整した米をお礼として学校のほうに(中沢ゼミ)送っています。そのとき「一年を通しての感想をお聞かせください」と書き添えたところ、佐藤剛裕君が便りをくださいました。

利勝父ちゃんへ

 送っていただいたお米、ゼミ一同で炊いて食べました。本当においしかった。自分たちで育てた米だと思うと余計においしかった。おかずと酒を持ち寄り、大学の教室に炊飯器や鍋を運び込んで、一年間の思い出話等をしながら楽しい時間を過ごすことが出来ました。思えば、農作業の体験などほとんどない僕たちが、五月の田植え、七月の草取り、十月の稲刈りと、無事に稲作を行うことが出来たのは、皆さんの助けがあったからです。。考えてみると、一年間のうち、僕らが大蔵村に行って作業したのはたったの三回ですから、まさにほったらかし農法だったのではないでしょうか。それでもあんなに立派な米が出来上がってしまったのですから、ほんとうにありがたいものです。
山形のことを話し合うときに、僕らの間では決まって「いつも、もらってばっかりで悪いなあ。」という言葉が口を突いて出ます。僕たちは大蔵村での合宿を通じて、大勢の皆さんに沢山のことをしてもらいながら、ろくにお返しをしていないことに気が付いて、申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになるのです。今回出来上がった米を目の前にして、この米を育ててくれた自然に対しても同じ気持ちが生まれて来るのをひしひしと感じたのです。これが今年の一番の収穫かな。(なんちゃって。)
一年間本当にありがとうございました。

中央大学中沢ゼミ 佐藤 剛裕

剛裕君へ

 どーっと、返事(しょうもない通信)書くの遅くなってしまいました。昨年中にいただいたのに、まったくしょうもないオヤジです。お便りどうもありがとう。たいへんうれしく拝見いたしました。剛裕君は昨年の春夏秋、それに今年の冬と(2月)5月、山形の四季をまたぐようにやってきましたね。
 大蔵村の田んぼのほうは過去二年間三俵以上(十・当たり)取れた試しがありません。有機肥料をさっとやって除草剤を一回散布するだけの、ほったらかしの農法なんで、しょうがないと思ってます。
 さて春の田植え、秋の稲刈り(はざがけ)と大変ご苦労さまでした。農業指導のほうは、私と友達の今野&成田君の二名、それに田んぼの地主であります三原さんとまったくもって豪華な布陣(?)であった、といわせてください。
 農作業が済んだあとは、肘折温泉で湯船につかり夜は恒例となりました、踊る公務員こと森繁哉主宰の舞踊団『行商カンパニー』のダンスの夕べとなります。
森さんのご好意で、大蔵村の山間地の柳淵の農家を改築した劇場『すすきのシアター』が皆さんの合宿先でもあります。山間地の田んぼとの関わりが、ついには踊りとの関わりとなってしまいました。森さんの舞台に出演しているうちに、ついにソロで踊ることになるとは``。
 「稲を舞う」という文を別紙に書き込みましたのでご覧ください。

 種、苗といちおう二つの踊りを観ていただきました。すすきのシアターという一種独特な空間のなか、「よっ、としかつがんばれ」「あべちゃん、いいぞ」「すごく、よかった」などど中沢先生はじめみなさんからおだてられて、種が芽を出してしまった、二階に登ったらはしごを外されてしまった、そんな感じです。
 そうそう、パーフェクトTVで放映された(森さんと青森の福士正一さん、それに私の三人の舞踏)ビデオ届きましたのでみんなで観てください。
あまり意味のない踊りのことを思っていると、意味のある散文を書くのが億劫になっています。という意味のない言訳をしつつ、また秋にみなさんと稲刈りをして(農作業のあとはビールを飲みながらそばを食べ温泉に入るというのが定番になりつつありますね)、乾杯できることを楽しみにしています。 剛裕君は夏休みはチベットとか、またまた成長して山形にやってくるんでしょうね。

 では、また。お元気で。

 

稲を舞う

 

 

 

 

 

 

「種」を演ずる私

 

 「ご飯がおいしい」とつくづく思う。それは自分の家で作った米がというわけではなく、他市町村どこで食べようとそう思うのであります。
日本中どこでも、おいしいお米作り運動は蔓延しています。おいしいお米のなかで、多くの稲作農民は疲弊しつつあります。 
 種を蒔きます。芽が出でほっとします。苗を田んぼに植えましょう。根付いて新葉がツンと天を突き刺します。生きようとする意志のようで『そうだ私も生きなければなりません』などと殊勝にも感動したりなんかいたします。と申しましても、雑事に追われ、おろおろしながらなんだかんだとあっというまに秋、というのが実態でありまして、感動などというのは実は消費者向けのお言葉にすぎないのかもしれません。が、それでも私にとって田んぼの風景は美しく、まったくもって、秋に稔るというのは、すばらしい。
私はご飯が好きです。あのときあの天候のなかで、またあの作業を行ってなどと思うと炊き上がりのご飯が非常にいとおしく、つい食べ過ぎてしまうのです。

 あー、このままでいきますと、日本で百・の米の自給は無理だと思います。これは現場に携わっている者の実感であります。それは、それは誰かが意欲をもって取り組んで米を作るでしょう。それでも2、3割は輸入に頼らざるおなえなくなると断言してもいい。日本米はまったくもって世界ではマイノリティー。歳を取ってうっかり公的な施設にでも入った日には、私の愛したお米は口にできず、まことにみみっちいといわれそうですが、あーそれだけで生きる糧を失ってしまいます。
そんな強迫観念から、つい私はご飯を食べすぎてしまうのであります。

 さあさあ、よってらっしゃいみてらっしゃい、稲の踊りだほいさっさ。私の身体は米をたらふく食った有機体。鐘や太鼓の踊りもいいけれど、たまには変な踊りも見てちょうだい。種になります苗になる。苗になります稲になる。稲になります穂が稔る。稔った籾はどうしましょ。食べてくださいばくばくと。そうして私はまた種になります。さあさあどうかお客さん。こんどはあなたが種を蒔く番、ほいさっさ。ではではみなさんごきげんよう。

山形県東田川郡余目町西野94 農民舞踏家(?) 阿部 利勝

 

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